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古墳や古墳マップに関すること、古墳マップをご利用の方々の交流など、ご自由にご活用ください。

運営(コンテンツ担当) - 2019/02/12 18:12:52
witnessさん
ご指摘ありがとうございます。2010年と2017年に訪問しましたが、全く気付きませんでした。今後とも宜しくお願い申し上げます。
運営(開発担当) - 2019/02/09 19:18:21
古墳の位置情報など間違いがありましたら、古墳名と修正内容をこちらかお問い合わせにいただけると助かります。確認次第修正いたします。
上毛野に在住 - 2019/01/26 19:57:11
こちらこそありがとうございます。朝倉・広瀬古墳群は群馬県最初の大古墳群といわれている重要な古墳群なので、サイト側の情報としてぜひ活用してください。
ゲスト - 2019/01/25 00:37:03
お世話になってます。消滅古墳の検索方法があれば教えてください。
運営(コンテンツ担当) - 2019/01/21 00:12:04
kzukoさん
庚塚古墳(伊勢崎市)へ名称変更いたしました。ご連絡ありがとうございました。

上毛野に在住さん
情報提供ありがとうございます。いただいた情報をもとに少しづつ登録・更新していきたいと思います。

ゲストさん
大藪城山古墳の情報提供ありがとうございます。登録完了致しました。
2010年に近くの南下古墳群、三津屋古墳を見学しました。吉岡町へはまた行きたいと考えております。
ゲスト - 2019/01/20 20:11:46
運営さん、吉岡町の古墳情報です。
大藪城山古墳(おおやぶしろやまこふん) 前方後円墳
所在地:北群馬郡吉岡町桃井城跡公園内 全長53m
防災公園造成工事の際に調査された古墳。古墳が保存されるため完掘はしなかったが、横穴式石室が発見された。古墳は公園内に保存されている。また、南側には大藪八幡古墳がある。
上毛古墳総覧掲載番号 明治村119号墳
上毛野に在住 - 2019/01/12 20:45:31
群馬県 朝倉・広瀬古墳群の主要古墳
・前橋(天川)二子山古墳 全長104m
・前橋八幡山古墳 全長130m
・前橋天神山古墳 129m
・朝倉天神山古墳(上川淵村5号墳) 直径15m
・小旦那古墳(上川淵村27号墳) 墳丘規模不明
・朝倉1、2号墳(上川淵村40、32号墳) 直径16m、23m
・長山古墳(上川淵村36号墳) 全長75m
・少林山古墳(上川淵村43号墳)18m
・鶴巻塚古墳(上川淵村44号墳) 74m
・蹄石古墳(上川淵村56号墳) 11m
・飯玉神社古墳(上川淵村97号墳) 全長不明
・大屋敷古墳(上川淵村104号墳) 全長85m
・行人塚古墳(上川淵村107号墳) 直径約32m
・鶴巻山古墳(上川淵村108号墳) 全長82m
・上両家二子山古墳(上陽村1号墳)全長79m
・包食塚古墳(上陽村2号墳) 16m
・ボンゼン山古墳(上陽村3号墳)25m
・オトウカ山古墳(上陽村5号墳) 直径30m
・文珠山・阿弥陀山古墳(上陽村6,7号墳) 全長50m、直径26m
・狐塚古墳(上陽村9号墳) 24m
・山王金冠塚、山王大塚古墳(上陽村14,15号墳) 53m、44m
・亀塚山、薬師山古墳(上陽村20,21号墳) 60m、25m
・善養寺東古墳(上陽村32号墳) 全長35m
運営(コンテンツ担当) - 2018/12/27 22:21:23
上毛野に在住さん
いつも情報提供ありがとうございます。
少しづつ登録させていただきます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
上毛野に在住 - 2018/12/27 20:34:30
運営さん、5基の古墳の情報です、ぜひマップの情報に使ってください。

オトカ塚古墳(芝根村2号墳)  前方後円墳 全長86m
群馬県佐波郡玉村町大字下茂木1047、1048‐1、1050‐1・2・3・4・5・6周辺
平成6年に住宅地造成中に偶然発見された古墳。発見されたのは基壇のみだったが、墳丘長86mの大型であると判明した。全体の発掘はされなかったが、のちに、芝根村2号墳(オトカ塚古墳)であることが判明した。また、この古墳からは、高さ1,5m以上ある馬型埴輪が見つかっており、玉村町文化センター内の歴史資料館に展示されている。古墳はその後、住宅地の下に埋没した。

長山古墳 前方後円墳 全長推定80mほど ※消滅古墳
前橋市朝倉町3丁目47
朝倉・広瀬古墳群の中でも大型だった古墳。発掘調査はされていないが墳丘掘削時に横穴式石室が発見された。

大屋敷古墳 前方後円墳 前記、長山古墳と同規模 ※消滅古墳
前橋市広瀬町2丁目15
広瀬団地開発のため破壊された古墳。発掘調査はされていない。埋葬施設は横穴式石室で、長山古墳や不二山古墳と同じ構造だった。

赤城寺裏山古墳 前方後方墳 全長約35m
桐生市新里町大久保字山田415
桐生市の山の斜面上に作られた古墳。発掘されていないため詳細不明。

相水谷津横穴墓(そうずいやつおうけつぼ) 横穴墓
安中市下秋間字相水谷津4191
現在確認されているのは1基のみ。周辺に古墳はほとんど確認されていないため、なぜここに作られたのかはわかっていない。
運営(開発担当) - 2018/11/04 13:48:17
ゲストさん、上毛野に在住さん
情報提供ありがとうございます。
古墳の登録は徐々に対応していきたいと思います。
上毛野に在住 - 2018/11/02 20:25:23
運営さん、群馬県太田市と栃木県足利市にまたがる古墳群のデータです。

矢場川村古墳群(古墳群)
全101基、前方後円墳1基、前方後方墳6基、他円墳
群馬県太田市矢場町、矢場新町、植木野町ほか
栃木県足利市里矢場町、新宿町、藤本町
群馬県太田市北部と栃木県足利市南部に分布する4世紀~5世紀前半の古墳群。
古墳群は、消滅した古墳も含めて群馬県側に推定35基、栃木県側に約74基が存在する。その中で、前方後方墳は6基確認されており、藤本観音山古墳(栃木県、現存)、矢場鶴巻山古墳(群馬県、消滅)などがあり、他は1基を除いて円墳だった。
現在は、群馬県側に古墳8基と1基の古墳跡(本矢場薬師塚古墳)と、
栃木県側に藤本観音山古墳を中心に多数現存している。なお、群馬県矢場町から龍舞にかけての地域に古墳が確認されていないが、古墳跡が確認できるため、古墳時代当時は有数の大古墳群だったと思われる。
しげ爺 - 2018/10/30 10:47:00
愛知県尾張旭市の印場大塚古墳を基にして今年11月3日に第10回大塚古墳祭を開催します。埴輪・勾玉・火おこしなどを体験 近くの西中学校の吹奏楽部も応援の演奏で盛り上げてくれます。9時から開始です。
ゲスト - 2018/10/22 21:03:23
運営さん、奈良県北部の天皇陵やその他の古墳の一部にまだ未投稿の古墳が数基存在するので投稿宜しくお願いします。
例:聖武天皇陵、境目谷古墳、マラ塚古墳、仁生皇太后陵
上毛野に在住 - 2018/10/22 19:57:43
運営さん、「割地山古墳」と「オクマン山古墳」の投稿ありがとうございます。
こちらでもこのような古墳を発見次第書き込みますので、よろしくお願いします。
運営(コンテンツ担当) - 2018/10/08 23:09:47
上毛野に在住さん
いつも情報提供ありがとうございます。
近日中に登録させていただきます。
上毛野に在住 - 2018/10/06 20:04:44
消滅した古墳ですが、運営さん、古墳マップの情報として使ってください。

群馬県太田市割地山古墳
墳丘規模…105m(一部削平、本古墳実査時の状態参考 推定115m以上)
住所…群馬県太田市南矢島町604-1外

太田市南部の高林・東矢島古墳群の1基。この古墳は、古墳群の中で最大規模の古墳。別名 九合村(くあいむら)51号墳。明治初期までほぼ完全な状態の墳丘が残っていたようだが、周辺の宅地造成が進み、大正時代後半ごろに後円部が削平、その時に横穴式石室が見つかったが、未調査のまま破壊。その数年後に古墳の実査が行われたが、その時点で墳丘は前方部一部しか残っておらず、周辺の住民の話を参考に推定規模を推測。その時の規模が105mだったが、のちにさらに大きかったことが判明、推定115mとなった。その後、古墳は完全に破壊され、現在は住宅地となっている。

オクマン山古墳
群馬県太田市脇屋町526‐1

墳丘径36mの円墳。宝泉村1号墳。古墳は、調査時には墳丘上部が削平された状態であったが、石室の壁石1段目と墳丘基壇及び埴輪列はよく残っており、多数の農夫埴輪や鷹匠埴輪をはじめとするたくさんの埴輪が出土した。石室内からの遺物の出土はほとんどなかった。しかし、人物埴輪は質が良く、このうち農夫埴輪1体が京都国立歴史博物館に所蔵されている。昭和20年代に消滅。
運営(コンテンツ担当) - 2018/09/29 22:23:38
いけまつさん
古墳の登録完了しました。情報提供ありがとうございました。
いけまつ - 2018/09/26 13:18:38
福岡県久留米市三潴町の十連寺古墳のデータです。

十連寺古墳
〒830-0111 福岡県久留米市三潴町西牟田6557−89

福岡県久留米市三潴町(標高9メートル程)東部の標高20メートル程の微高地上に位置する。岩戸山古墳に代表される八女古墳群(やめこふんぐん)の西端部にある。八女古墳群のなかでも、古い時期に属するようである。八女古墳群との関連や、箱式石棺から大型古墳造営への転換時期など、筑後地方の古墳の変遷を考える上でも面白い資料ではなかろうか。
正式な発掘調査が行われていないので詳細は不明であるが、古墳に隣接して建設された病院建設の際、福岡県文化財保護課に立会いをお願いした時の報告文書に記載された内容によれば、すでに天井石の一部が崩落し、石室内は土砂が充満しているであろうとのことであった。
墳丘は西側3分の1と裾周り部分が削平されていて、南北に16メートル、東西に12メートルが残るのみである。現存する部分から推定して、径300メートル前後の円墳であったと考えられる。古墳の築造は、平らな地形の上に人為的に盛土を5メートル程おこなって墳丘を作り上げたもので、古墳時代後期のように旧地形の高まりを利用して土盛りするような簡易な工法ではない。石室は小口積みに積み上げ、上部へ内傾してゆくような横穴式石室的な工法をとっていたようである。石室内部には朱塗りされていたことが、採集した石材の一部から確認されている。石室は墳丘土盛り中に石室を構築するもので、5世紀代を中心に古手の古墳に多く見られる手法である。
このことから、遺物がほとんど採集されていないにも関わらず築造時期が推定出来ており、この古墳の築造年代は6世紀中葉を下らないと推測される。ただ、この遺跡も正式な発掘調査が行われておらず、今後の調査が待たれる。