mirukashiさんのプロフィール
kakapo氏が言っているのは例の穴とした枢(とぼそ/とまら?)石の事です。 羨道と前室の境にあり扉がついていたようです。 ※読めませんでした。
10/13筑後川流域装飾古墳同時公開で公開されていました。 日岡古墳も久しぶり見学してきました。 奥壁の同心円紋六連(膳※か!)は相変わらずのインパクトです。 ここの玄室は壁面が滑らかに揃えてあります。それも全面、全く隙がありません。 隙が無い壁面には全面彩色装飾があります、 が目視では現状赤以外は確認が難しいと思います。 同心円紋、蕨手紋、動物(魚含む)、人物、武具、船 彩色装飾古墳としては最古級です。 ポスター買っといて良かったよ。
秋のお彼岸の時期になると気になる古墳ですね。 居住地から遠いので中々ベストなタイミングで訪問できないでいます。 鏡柄型の前方後円墳はBとC、それぞれ後円部高さは6m程もありますが 前方部高さは1m位です。
田主丸大塚古墳の前方部は削平されていましたが、 公園化するにあたり前方部の版築部分の断面が見学できるようになっています。 そんな事より主体部をきっちり調べろよと言う気持ちがありますが…
外堤を含めた墓域は径89mに達する九州北部最大の円墳です。 出土した岩見方木製品と言い広域とつながりのある人物の墓と考えられます。 横穴式石室の括りになりますが、墳頂から斜めに下る墓道がある九州北部型横穴式石室と呼ばれる主体部持ちます(最大規模です)。この形式は朝鮮半島や大陸の影響を受けている様です。長野川を挟んだ西側の対照的位置には一貴山銚子塚古墳があります。 意識して作られたのでしょうか?興味深いです。
前方部は道路で大分破壊されていますが端部は道路の反対側で残っています。
端山古墳、北西側より。 果樹が植えられているのは周濠になります。 左のあぜは前方部の痕跡をなぞります。 この古墳は4世紀代の築造ですので その時には伊都国の中心はここには無かったことになります。
築山古墳と端山古墳は弥生時代の伊都国のほぼ中心部に築造されています。 どちらも前方部は破壊され円墳状態ですが、航空写真で痕跡は確認できます。
そういえば石室にはしめ縄がありました。 4月の慰霊祭の物でしょうか。
今回は伊都国周辺の古墳、墳墓を回ってきましたよ。
11月も終わりだというのに蛇が落ちてきた。マムシっぽかった。 画像だと微妙ですが、彩色装飾の横穴は無色と比べると 違和感あるので結構解ります。 阿蘇溶結凝灰岩は加工しやすい反面、風化もしやすいようで崩壊も進んでいます。 こんなすごいのむざむざ朽ち果てさせるのか、国指定史跡だろうに。 石屋形はほぼ標準装備で屋根の形にバリエーションあり。
屋外で特別に保護施設があるわけではないのに彩色装飾の残り具合はすごい。 1号墳の入り口には多数の円紋、脇には線刻でゆきが刻んであります。 2号墳の入り口には円紋三角文の彩色壁画だけ。(派手ですが) 3号墳の入り口には彩色だけと装飾の変遷がうかがい知れます。 当時の流行りすたりでしょうか?
大坊古墳行ってきました。 石屋形の連続三角文に円紋、確かに確認出来ました。 前室の手前、羨道からのぞき込む様に見学します。 google MAPのストリートビューで石室内部は確認できます。
石人の江戸時代の模写図を上げてみました。なかなか味のあるお顔だった様です。現状のっぺらぼうなのは風化のせいだけではなく、体の調子が悪い時、石人のその部分を触る(さする?)と治るという民間信仰に因るものだそうです。
盾、撮り忘れてましたけど 108号の拡大していない方に少し写ってますね。(左側) 道路沿いにあるのですが崖の上なのでアクセスに難ありです。 GoogleMapの案内が正解
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kakapo氏が言っているのは例の穴とした枢(とぼそ/とまら?)石の事です。
羨道と前室の境にあり扉がついていたようです。
※読めませんでした。
10/13筑後川流域装飾古墳同時公開で公開されていました。
日岡古墳も久しぶり見学してきました。
奥壁の同心円紋六連(膳※か!)は相変わらずのインパクトです。
ここの玄室は壁面が滑らかに揃えてあります。それも全面、全く隙がありません。
隙が無い壁面には全面彩色装飾があります、
が目視では現状赤以外は確認が難しいと思います。
同心円紋、蕨手紋、動物(魚含む)、人物、武具、船
彩色装飾古墳としては最古級です。
ポスター買っといて良かったよ。
秋のお彼岸の時期になると気になる古墳ですね。
居住地から遠いので中々ベストなタイミングで訪問できないでいます。
鏡柄型の前方後円墳はBとC、それぞれ後円部高さは6m程もありますが
前方部高さは1m位です。
田主丸大塚古墳の前方部は削平されていましたが、
公園化するにあたり前方部の版築部分の断面が見学できるようになっています。
そんな事より主体部をきっちり調べろよと言う気持ちがありますが…
外堤を含めた墓域は径89mに達する九州北部最大の円墳です。
出土した岩見方木製品と言い広域とつながりのある人物の墓と考えられます。
横穴式石室の括りになりますが、墳頂から斜めに下る墓道がある九州北部型横穴式石室と呼ばれる主体部持ちます(最大規模です)。この形式は朝鮮半島や大陸の影響を受けている様です。長野川を挟んだ西側の対照的位置には一貴山銚子塚古墳があります。
意識して作られたのでしょうか?興味深いです。
前方部は道路で大分破壊されていますが端部は道路の反対側で残っています。
端山古墳、北西側より。
果樹が植えられているのは周濠になります。
左のあぜは前方部の痕跡をなぞります。
この古墳は4世紀代の築造ですので
その時には伊都国の中心はここには無かったことになります。
築山古墳と端山古墳は弥生時代の伊都国のほぼ中心部に築造されています。
どちらも前方部は破壊され円墳状態ですが、航空写真で痕跡は確認できます。
そういえば石室にはしめ縄がありました。
4月の慰霊祭の物でしょうか。
今回は伊都国周辺の古墳、墳墓を回ってきましたよ。
11月も終わりだというのに蛇が落ちてきた。マムシっぽかった。
画像だと微妙ですが、彩色装飾の横穴は無色と比べると
違和感あるので結構解ります。
阿蘇溶結凝灰岩は加工しやすい反面、風化もしやすいようで崩壊も進んでいます。
こんなすごいのむざむざ朽ち果てさせるのか、国指定史跡だろうに。
石屋形はほぼ標準装備で屋根の形にバリエーションあり。
屋外で特別に保護施設があるわけではないのに彩色装飾の残り具合はすごい。
1号墳の入り口には多数の円紋、脇には線刻でゆきが刻んであります。
2号墳の入り口には円紋三角文の彩色壁画だけ。(派手ですが)
3号墳の入り口には彩色だけと装飾の変遷がうかがい知れます。
当時の流行りすたりでしょうか?
大坊古墳行ってきました。
石屋形の連続三角文に円紋、確かに確認出来ました。
前室の手前、羨道からのぞき込む様に見学します。
google MAPのストリートビューで石室内部は確認できます。
石人の江戸時代の模写図を上げてみました。なかなか味のあるお顔だった様です。現状のっぺらぼうなのは風化のせいだけではなく、体の調子が悪い時、石人のその部分を触る(さする?)と治るという民間信仰に因るものだそうです。
盾、撮り忘れてましたけど
108号の拡大していない方に少し写ってますね。(左側)
道路沿いにあるのですが崖の上なのでアクセスに難ありです。
GoogleMapの案内が正解