安濃川北岸の丘陵東端に所在した鳥居古墳の石室と石棺。
古墳の墳形・規模は不明。7世紀前半代の築造。
--- 以下は三重県総合博物館(MieMu)HPより引用 ---
・横穴式石室(両袖型)
残存長6.77m、玄室長4.3m・幅1.6~2.2m、羨道長2.47m・幅1.2m
・刳抜式家形石棺
蓋:長辺2.85m・短辺0.85~1.04m・高さ0.3m
身:長辺2.6m・短辺0.9m・高さ0.67m
ご存知でしょうか、MieMuのミュージアム・フィールドに「古墳」があることを。
「鳥居古墳」と名づけられた小さな土の高まりは、古くからそこにあったように見えますが、実は今から50年以上前には、別の場所にあったのです。
「古代の遺跡があるが荒廃が著しいので博物館で保存してほしい」と土地の所有者から旧三重県立博物館に連絡があったのは、昭和38(1963)年のことでした。古墳があった正確な場所は、はっきりとしませんが、現在の津市鳥居町にあるしあわせの森公園の南側あたりと考えられています。おそらく国鉄参宮線の敷設(大正6年)に際して墳丘の一部が破壊され、その後は石材が露出したまま放置されていたのでしょう。
連絡を受けたすぐあと、旧三重県立博物館では発掘調査を実施し、現在三重県指定有形文化財に指定されている「銅板押出仏」など多数の資料を発掘しました。押出仏とは、銅製の仏像を浮き彫りにした銅製の型に薄い銅版をあて、鎚(つち)や鏨(たがね)で叩いて仏の姿をかたどり渡金(ときん)を行ったレリーフです。出土した押出仏には、一光三尊仏といって、舟形の光背(こうはい)に天蓋を頂く如来立像、その左右に菩薩立像、上部4体の化仏を配する資料がありました。他にも、平成10年に奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で出土した鋳型と酷似する菩薩像もありました。この押出仏は、被葬者への副葬品なのか、後に行われた供養などに用いられたのかは諸説があります。しかし、いずれにしても、この古墳の被葬者または地域の有力豪族が、大和王権との深いつながりを持っていたことを感じさせてくれる貴重な資料であることに違いはありません。
ところで、脚光を浴びる「押出仏」のために少々影が薄くなっていますが、石室の中に置かれた刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)も、重厚な容姿を誇っています。蓋が2つに割れ、盗掘によると思われる穴があき、蓋を持ち上げる際に使用したと考えられている4つの縄掛突起(なわかけとっき)のうちの1つが破損している以外は、ほぼ完全な形で残っています。県内には約7000基という数の古墳があるといわれていますが、遺体を埋葬するときに石棺(石の板を組み合わせて作る箱型石棺も含みます)を用いたものは、現在知られているだけで十数例と極わずかです。もちろん、すべてが発掘調査されているわけではありませんので、今後増える可能性もありますが、それにしても少ない数です。そしてさらに、家形の石棺で蓋と棺の双方が現存しているものとなると、この鳥居古墳と延命寺(津市一志町井関)に伝わる2例しかありません。鳥居古墳は、三重県における古墳時代の埋葬方法を考えるうえで、欠かすことのできない存在なのです。
また、鳥居古墳は、三重県の“遺跡保存活用史”を語るうえでも貴重な存在です。発掘調査が行われたのは、昭和38年のことで、現在のように発掘調査が盛んに行われていた時期ではありません。しかも行政が主体となって行う調査は、数少ない頃でしたから、旧三重県立博物館はその先駆を成し、調査・研究機関としての役割を充分に担っていたというわけです。さらに、調査後には石室と石棺を旧三重県立博物館敷地に移築しています。古くは、考古学の対象は“モノ”が中心でした。しかも鳥居古墳からは、押出仏という貴重な資料が発見されていましたので、その“モノ”が出土した遺構を残そうという発想は、昭和30年代としてはきっと斬新なものだったことでしょう。当時の新聞も「石室をそっくり復元するのは全国でも初めて」と報じています。
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