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古墳 (108)
<群馬> 荒砥村343号墳 |
<群馬> 入野村37号墳 |
<群馬> 下佐野寺前7号墳 |
<群馬> 東村9号墳 |
<群馬> 澤野村82号墳 |
<群馬> 高林愛宕山古墳 |
<群馬> (仮)高林古墳群無名5号墳 |
<群馬> (仮)高林古墳群無名4号墳 |
<群馬> (仮)高林古墳群無名3号墳 |
<群馬> 澤野村51号墳 |
コメント (74)
かなり大きな古墳で、直径は70mはあると思います。墳丘は下野型古墳と見られ、二段の段築です。基壇上、上段南南西に石室が露出しており、羨道部分と見られる天井石がズレて隙間が空いています。隙間から見るに、羨道は幅1m程度と見られます。また周濠も立派で、特に墳丘北〜南東にかけて、地面を削った幅6m程度の堀が残っています。
墳丘南側は少し削られています。
下佐野寺前7号墳の墳丘形状については諸説ありますが、方墳(または前方後円墳と断定できない)とする文献が多かったため、こちらでは方墳として登録します。
近くで畑作業をしていた方曰く、この古墳のある土地は私有地だが、古墳見学のためなら立ち入っても問題ないとのことでした。
石室に入ろうと試みましたが、大量の雑草に阻まれて断念しました…
訪問日は強風のため砂ぼこりが激しく、墳丘をよく観察することが出来ませんでしたが、1m以上はある天井石や奥壁とみられる石材が南北に並んでいたため、横穴式石室であると思われます。畑の持ち主の方がいなかったため、遠方からの観察となりましたが、石室の状況はどうなのか、間近で見てみたいものです。
現在後円部墳頂部には江戸時代中期~明治にかけての時期に制作された板碑や石仏、墓石などが多数置かれていました。
墳丘東側から後円部墳頂の祠に向けて登る階段があります。墳頂部の祠に向かって正面、左側に石棺材があります。石材の様子から、祠の左に立っている石材が石棺の蓋石、祠前の石のうち左と中央が石棺床石ないし石棺長辺の石材、右が石棺短辺の石材のように見えます。
荒砥村291号墳の詳細なデータです。
以下発掘調査報告書より要約
二之宮八王子古墳
平成29年に墳丘の現状変更のため発掘した。墳丘は直径40m程度の円墳である。埋葬施設は墳丘南に開口する両袖型横穴式石室で、角閃石安山岩の切石を用いた石室である。石室は全長 8.65 m、玄室長 5.45 m、同最大幅 2.10 m、同奥幅2.05m、羨道長 3.20 m、同奥幅 1.10 mで、高さは玄室奥で 2.45 m、羨道で 1.30 mとなっている。出土品は直刀3(大刀 2 、小刀 1)、刀子2、鉄鏃8、耳環4である。また、見つかった骨や歯から、少なくとも4人以上が埋葬されていたことが判明した。築造年代は7世紀前半で、以降7世紀中頃まで追葬が行われていた。
木瀬村6号墳についての詳細なデータです。
以下前橋市教育委員会年報第50集より要約
小島田八日市古墳
平成30年5月に所有者が墳丘一部を削って小屋を建設するために発掘した。墳丘形状や規模は不明、調査の結果や墳丘、盛り土の形状から現状よりも大きな古墳の北西部の一部分であると推定。埋葬施設は2つあり、1つ目は形状不明、2つ目は墳頂部を追葬のために掘り出して構築した竪穴式の礫槨で、木棺を直葬した後に南北に礫を詰めたものである。2つ目の埋葬施設はほぼ未盗掘の状態であり、ら重圏文鏡、ガラス小玉、鉄器が出土した。鉄器は、剣 1 点、槍 1 点、槍鉋 1 点と推定されている。築造年代は4世紀前半と推定されている。
カロウト山古墳の石棺蓋石に関する記載を発見したのでこちらに書いておきます。
以下原文ママ
[石棺の蓋石?]此石棺には蓋石が存在しない事は先にも記したところであるが、土地の人に聞くと、「この石棺の蓋石は發掘の時にも見當らないて、之と全く質のの異つた硬い石が載ってゐた」といふ。そしてこの硬い石は石棺と一所に學校へ運んだといふ。學校の先生に「校舎の西の垣に近くある表面の平らな石が之である」と教へられて實測することが出來た。
此蓋石といふのは緻密な安山岩で、長さ三尺五寸、巾二尺六寸乃至三尺一寸、厚さ最大の所が一尺八寸ある。一方だけが平になってゐる。此石は以前は長かつたといふ事であるが、一部分は石屋に割らせて何かの建物の土臺石に使つたといふ事である。(石屋が割つた跡ははつきり判る)。さうすると以前は長さ七尺位あつたらうと思はれる。(後略)
[追記](前略)他は、長側面にある陰刻である。この弧紋が何を表してゐるか知る事が出來ない。(後略)
引用元:福島武雄1923『古墳行脚(石棺之部)』 上毛郷土史研究會「上毛及上毛人」第75号 p.23~24
鈴塚古墳のみ写真を撮り忘れてしまいました…
訪問当時は草が茂っており、現存墳丘は確認できませんでしたが、ストリートビューでは確認できます。
現在墳丘の南側にソーラーパネルがあり、これが墳丘を若干削っているように見えます。
埴輪出土地を示す標識は現在は道路沿いに設置されていますが、実際に墳丘があったのは北西に約130mほどの場所にあるY字路の部分です。
高崎市教育委員会1981『元島名将軍塚古墳』など一部の文献によると、こちらが下滝3号墳だという記載があります。その記載によれば、この古墳は直径53mの円墳だということです。
高崎市教育委員会1981『元島名将軍塚古墳』など一部の文献によると、こちらが御伊勢山古墳だという記載があります。その記載によれば、この古墳は後円部を北北西に向けた前方後円墳で、現存墳丘は前方部の大半にあたるということです。
築造年代は概ね5世紀代と推定されています。