seiuchiさんのプロフィール
現地の案内地図を頼りに向山古墳群から遊歩道を東に進むと、道路脇の3号墳に辿り着きました。南に開口する小さな横穴式石室です。他の古墳も近くに有る様ですが、時間の関係でパスしてしまいました。(#^.^#)
沢田大塚古墳や操山51号墳周辺の古墳を見学するも、気温35℃の猛暑のため藪に入って行く気力も失せ、またの機会と里山センターの駐車場に帰っていると、山道脇の柿の木畑に有った立派な墳丘に出会う。調べると33号墳のようで、元気を出して石室に入ってみた。羨道入口は狭いですが、玄室長さ4.5m、幅1.9m、高さ2.1mぐらいで、良い状態で残っている古墳でした。
久しぶりに見る大きな石室です。高さが3.2mで、大きな空間が広がっています。玄室の天井石は2石、奥壁は3段積み、袖石まぐさ石、いずれも巨石が使われています。羨道部の天井石は4石で、長さ6m以上、幅1.7m、高さ1.6~1.9mと完存です。操山古墳群中、最大規模の石室で、地位の高い人が埋葬されたと想像されます。
山道から竹林に入ると大きな墳丘が目に入ります。南側に回り込むと横穴式石室が開口していました。羨道部は完存で、幅1.3m、高さ1m、長さ7mほどの大きさです。玄室は6m、幅2.3m、高さ2.3mほどの大きさで完存です。天井石4石、袖石まぐさ石とも巨石が使われています。床面には何故か箱型の凸部が見られます。 その他、51号墳を中心に周辺70m範囲に5基の古墳が見られます。 51号墳西側に古墳(52号墳) 墳丘の裾を接するように、径15m、高さ1.5mぐらいの墳丘が存在しています。天井石が露出し、奥壁側の石材が一部が外され開口しています。羨道側はほぼ埋もれる。左片袖式の石室で、石室残存長さ10m、玄室長さ4.2m、幅2m、羨道幅1.1mとされています。玄室高さは1.9m程度で、天井石3石が載っています。奥壁は鏡石に上側2段積みです。床面には何故か小石が散在しています。 51号墳東側近くに古墳(53号墳) 封土は無くなり、石材露出の古墳が存在しています。天井石の一部が外されています。古墳の情報は、径10mの円墳で、片袖式の横穴式石室。石室残存長さ6.5m、玄室長さ4m、幅1.9m、羨道幅1.2mとされています。 51号墳北側20mに古墳(50号墳) 封土は流出し、石材が露出しています。径10mの円墳とされ、片袖式の横穴式石室で、石室残存長さ9.2m、玄室長さ4.2m、幅2m、羨道幅1.2mとされています。 51号墳の東側70m付近にも2基の古墳が見られます。
東山浄苑に入って行くと、奥の方に20mほどの小さな茂みが有り、南側に回り込むと横穴式石室が開口していました。石室長さ8m、幅1.5m、高さ1.6m程度で、天井石3石、奥壁2段積みの石室です。墳丘上に天井石が露出し、脇に石塔が建てられています。
岡山国際ホテルの北西側尾根頂部に緩やかな前方後円墳が有ります。墳丘全体が憩いの場になっていて、ライトアップや椅子などが設置されています。 後円部は径20m級、高さは1.5~2mほどに見えますが、くびれ部から見れば1mほどです。前方部長さ20m、くびれ部から見ると0.7mほどの低い墳丘です。後円部に大石が有るとの事で、中央部に1石存在していますが、意味不明だなぁと思いながらの見学です。後円部墳頂のホテル側に水源を確保しています。(ホテルの滝用の水源?)
丘陵南側の道路から登るとすぐ山頂に行きつきます。墳丘上は墓地になっていて、墳形が分かり難いですが、南西側の藪に入ると隆起が確認出来ます。しかし古墳と言われなければ分からない状況です。
1号墳 丘陵北側の津高方面から車1台しか通れないような坂道を上がって行くと、尾根部に山道が4方向から交わる場所にコンクリートの建物(水道設備?)が有り、そこから西側の小さな尾根に入って藪を進むと墳丘が存在していました。1号墳のようです。前方部を西南西に向ける前方後方墳で、後方部墳丘は一辺15m、高さ1.5~2mほどに見えます。墳丘は掘り返されたようで、方墳か円墳か分かりにくくなっています。墳頂直下に竪穴式石槨が有ったようで、掘り出した跡の凹みが見られます。前方部は長さ15mほどに見えますが、高さの情報は1.75mになっているのに0.5~1mほどしか見えず、だいぶ形が変わっているように感じますが、北西側(山道側)は墳丘の形が残っています。 ※有名な都月型埴輪が出土した古墳にしては、保存状態が寂しく感じます。(#^.^#) 2号墓(弥生墳丘墓) 1号墳から山道を100mほど上がって行くと、小さな坂道に成っている所が有ります。坂道を上がって墳頂に立っても、平坦面のため古墳と分かり難いですが、藪に入って見上げると20m級の墳丘がよく分かります。墳頂には竪穴式石槨や土壙墓が有ったようで、現在は墳頂は何も残っていませんが、南側の墳丘裾(山道下)に石列らしき物が見られます。 3号墳 南に延びる尾根上の開けた山道脇に、円墳形状の墳丘が存在しているように見えます。後円部のようで、径15m級、高さ1mほどの大きさです。前方部は長さ15m、先端幅10m、高さ1mほどの大きさで南東方向に向いているように感じますが、形は崩れ、古墳と言われなければ分からないような状況です。くびれ部に山道が通りさらに分かりにくくなっています。 4号墳 1号墳の北東側に墳丘の一部とみられる名残の隆起が見られますが、古墳かどうかは定かではありません。 番外 車の駐車場所を探していると、池(宮下池)の脇に広いスペースが見えたので、行ってみると陸軍墓地の場所でした。古墳見学の帰りに寄って見ると、丘陵に満州事変から大東亜戦争までの英霊の墓が沢山ありました。
小丸山古墳から尾根筋の竹林と藪を登って丸山古墳を再訪したさい、墳頂の縁(古墳道と接する)付近にいつの時代か不明ですが、レンガ色の焼物片らしき物が道表面に露出していたので写真に撮ってみました。(#^.^#)
山頂の雑木に立派な墳丘が残っています。後円部墳頂は15mほどの平坦面で、中央に主軸方向と直交するように長さ3.5m、幅2.2m、深さ0.7mほどの掘り出し跡が残っています。前方部はバチ形に開き、墳丘裾周りには周庭帯のような平坦面が見られます。 くびれ部の北側の墳丘裾に動物が掘り出したような小さな穴が有ります。見学時はただの穴が有ると通り過ぎてしまいましたが、別の古墳見学の帰りに傍を通ったさい、もう一度よく見ると、箱式石棺の蓋石が露出している様な気がしてきて、石の隙間に棒切れを差し込んでみると、古墳主軸方向に平行して長さ2.2m、幅0.5mの石棺らしき空間がある様な感じがしてきた。隙間にやっとカメラを挿入出来たので、写真を撮って見るとそれらしい空間が見れたので未発見の箱式石棺ではと、少し喜んでみた。(#^.^#)
丘陵北側から尾根筋の墓地に上がる山道があり、その途中から藪の斜面を登ります。墳丘北側は藪と斜面の傾斜がきつく登り難いです。 後円部の北側は削られ、墳丘の1/3が無くなって崖になっています。東側の墳丘裾下も土取りで高い崖になっていて、転落すると助からない状況です。後円部墳端付近に箱式石棺が有ったようですが、探すも見つける事は出来ず。 後円部から前方部の方を見ると大きく広がり、前方部の方が高く見えます。自然の地形を利用して造られていますが、前方部の方に後円部を造るのが常道でしょうが、見晴らしの良い方を選んだとか勝手に想像してみます。(#^.^#) 前方部墳頂には掘り出し跡が残り、脇に三角点が設置されていました。前方部北側も削られたのか、崩落したものか墳丘裾が切り立っています。
山頂は平坦化され、歓喜天神社が建てられています。古墳の面影は残っていないのかと思いながら見学すると、宮の後方に長さ15m、幅2.5m、高さ1.1mほどの土手が存在していました。おそらく墳丘を削って残った一部と思われます。大きさからすると、径15~20m級の墳丘だったと思ったりします。(#^.^#) 土手の東側と中央に祠が祀られているのが見えます。 珍しい神社名ですが、境内には別の赤い社と鳥居も見られます。神社の北側には参道が有り、この道から楽に来られるように思います。(尾根筋を登ったため未通行ですが)
丘陵の南側集落より山頂を目指すも、竹林地帯の沢山の倒竹に悩まされながらの登りです。竹林を抜けると、立派な墳丘が目に入ります。墳長は42mらしく、高さは10mほどの円墳に見えます。墳丘の南西方向に出っ張りらしいものが見られるのでこの位置が造部かなぁと思ったりしますが、反対方向の北東側も少し出っ張っている感じがあります。墳頂は平坦で、東西方向に長さ2m、幅1m、深さ0.5mほどの掘り出し跡が見られます。 墳丘の西南西方向30mぐらいの位置に、径7mほどの気になる高まりが見られます。
藪の中に有りますが、円墳の墳丘がよく残っていて、径20m級、高さ2~2.5mほどに見えます。墳丘東から中心に向かって長さ7m以上、幅2m、深さ1m?ほどの掘り出し跡が残っています。ただ、墳丘周辺の雑木を切った材木が盗掘坑に入れられているのが残念です。墳頂には三角点が有り、脇に朽ちた祠が見られます。角礫が見られるとの事ですが、よくわからず。墳丘周りには、周庭帯と思われるような平坦な地形が、5~15mの幅で存在しています。
尾根山頂に円墳らしき高まりが有ります。山頂に有るため規模は不明ですが、径15m級、高さ1~1.5mぐらいに見えます。
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現地の案内地図を頼りに向山古墳群から遊歩道を東に進むと、道路脇の3号墳に辿り着きました。南に開口する小さな横穴式石室です。他の古墳も近くに有る様ですが、時間の関係でパスしてしまいました。(#^.^#)
沢田大塚古墳や操山51号墳周辺の古墳を見学するも、気温35℃の猛暑のため藪に入って行く気力も失せ、またの機会と里山センターの駐車場に帰っていると、山道脇の柿の木畑に有った立派な墳丘に出会う。調べると33号墳のようで、元気を出して石室に入ってみた。羨道入口は狭いですが、玄室長さ4.5m、幅1.9m、高さ2.1mぐらいで、良い状態で残っている古墳でした。
久しぶりに見る大きな石室です。高さが3.2mで、大きな空間が広がっています。玄室の天井石は2石、奥壁は3段積み、袖石まぐさ石、いずれも巨石が使われています。羨道部の天井石は4石で、長さ6m以上、幅1.7m、高さ1.6~1.9mと完存です。操山古墳群中、最大規模の石室で、地位の高い人が埋葬されたと想像されます。
山道から竹林に入ると大きな墳丘が目に入ります。南側に回り込むと横穴式石室が開口していました。羨道部は完存で、幅1.3m、高さ1m、長さ7mほどの大きさです。玄室は6m、幅2.3m、高さ2.3mほどの大きさで完存です。天井石4石、袖石まぐさ石とも巨石が使われています。床面には何故か箱型の凸部が見られます。
その他、51号墳を中心に周辺70m範囲に5基の古墳が見られます。
51号墳西側に古墳(52号墳)
墳丘の裾を接するように、径15m、高さ1.5mぐらいの墳丘が存在しています。天井石が露出し、奥壁側の石材が一部が外され開口しています。羨道側はほぼ埋もれる。左片袖式の石室で、石室残存長さ10m、玄室長さ4.2m、幅2m、羨道幅1.1mとされています。玄室高さは1.9m程度で、天井石3石が載っています。奥壁は鏡石に上側2段積みです。床面には何故か小石が散在しています。
51号墳東側近くに古墳(53号墳)
封土は無くなり、石材露出の古墳が存在しています。天井石の一部が外されています。古墳の情報は、径10mの円墳で、片袖式の横穴式石室。石室残存長さ6.5m、玄室長さ4m、幅1.9m、羨道幅1.2mとされています。
51号墳北側20mに古墳(50号墳)
封土は流出し、石材が露出しています。径10mの円墳とされ、片袖式の横穴式石室で、石室残存長さ9.2m、玄室長さ4.2m、幅2m、羨道幅1.2mとされています。
51号墳の東側70m付近にも2基の古墳が見られます。
東山浄苑に入って行くと、奥の方に20mほどの小さな茂みが有り、南側に回り込むと横穴式石室が開口していました。石室長さ8m、幅1.5m、高さ1.6m程度で、天井石3石、奥壁2段積みの石室です。墳丘上に天井石が露出し、脇に石塔が建てられています。
岡山国際ホテルの北西側尾根頂部に緩やかな前方後円墳が有ります。墳丘全体が憩いの場になっていて、ライトアップや椅子などが設置されています。
後円部は径20m級、高さは1.5~2mほどに見えますが、くびれ部から見れば1mほどです。前方部長さ20m、くびれ部から見ると0.7mほどの低い墳丘です。後円部に大石が有るとの事で、中央部に1石存在していますが、意味不明だなぁと思いながらの見学です。後円部墳頂のホテル側に水源を確保しています。(ホテルの滝用の水源?)
丘陵南側の道路から登るとすぐ山頂に行きつきます。墳丘上は墓地になっていて、墳形が分かり難いですが、南西側の藪に入ると隆起が確認出来ます。しかし古墳と言われなければ分からない状況です。
1号墳
丘陵北側の津高方面から車1台しか通れないような坂道を上がって行くと、尾根部に山道が4方向から交わる場所にコンクリートの建物(水道設備?)が有り、そこから西側の小さな尾根に入って藪を進むと墳丘が存在していました。1号墳のようです。前方部を西南西に向ける前方後方墳で、後方部墳丘は一辺15m、高さ1.5~2mほどに見えます。墳丘は掘り返されたようで、方墳か円墳か分かりにくくなっています。墳頂直下に竪穴式石槨が有ったようで、掘り出した跡の凹みが見られます。前方部は長さ15mほどに見えますが、高さの情報は1.75mになっているのに0.5~1mほどしか見えず、だいぶ形が変わっているように感じますが、北西側(山道側)は墳丘の形が残っています。
※有名な都月型埴輪が出土した古墳にしては、保存状態が寂しく感じます。(#^.^#)
2号墓(弥生墳丘墓)
1号墳から山道を100mほど上がって行くと、小さな坂道に成っている所が有ります。坂道を上がって墳頂に立っても、平坦面のため古墳と分かり難いですが、藪に入って見上げると20m級の墳丘がよく分かります。墳頂には竪穴式石槨や土壙墓が有ったようで、現在は墳頂は何も残っていませんが、南側の墳丘裾(山道下)に石列らしき物が見られます。
3号墳
南に延びる尾根上の開けた山道脇に、円墳形状の墳丘が存在しているように見えます。後円部のようで、径15m級、高さ1mほどの大きさです。前方部は長さ15m、先端幅10m、高さ1mほどの大きさで南東方向に向いているように感じますが、形は崩れ、古墳と言われなければ分からないような状況です。くびれ部に山道が通りさらに分かりにくくなっています。
4号墳
1号墳の北東側に墳丘の一部とみられる名残の隆起が見られますが、古墳かどうかは定かではありません。
番外
車の駐車場所を探していると、池(宮下池)の脇に広いスペースが見えたので、行ってみると陸軍墓地の場所でした。古墳見学の帰りに寄って見ると、丘陵に満州事変から大東亜戦争までの英霊の墓が沢山ありました。
小丸山古墳から尾根筋の竹林と藪を登って丸山古墳を再訪したさい、墳頂の縁(古墳道と接する)付近にいつの時代か不明ですが、レンガ色の焼物片らしき物が道表面に露出していたので写真に撮ってみました。(#^.^#)
山頂の雑木に立派な墳丘が残っています。後円部墳頂は15mほどの平坦面で、中央に主軸方向と直交するように長さ3.5m、幅2.2m、深さ0.7mほどの掘り出し跡が残っています。前方部はバチ形に開き、墳丘裾周りには周庭帯のような平坦面が見られます。
くびれ部の北側の墳丘裾に動物が掘り出したような小さな穴が有ります。見学時はただの穴が有ると通り過ぎてしまいましたが、別の古墳見学の帰りに傍を通ったさい、もう一度よく見ると、箱式石棺の蓋石が露出している様な気がしてきて、石の隙間に棒切れを差し込んでみると、古墳主軸方向に平行して長さ2.2m、幅0.5mの石棺らしき空間がある様な感じがしてきた。隙間にやっとカメラを挿入出来たので、写真を撮って見るとそれらしい空間が見れたので未発見の箱式石棺ではと、少し喜んでみた。(#^.^#)
丘陵北側から尾根筋の墓地に上がる山道があり、その途中から藪の斜面を登ります。墳丘北側は藪と斜面の傾斜がきつく登り難いです。
後円部の北側は削られ、墳丘の1/3が無くなって崖になっています。東側の墳丘裾下も土取りで高い崖になっていて、転落すると助からない状況です。後円部墳端付近に箱式石棺が有ったようですが、探すも見つける事は出来ず。
後円部から前方部の方を見ると大きく広がり、前方部の方が高く見えます。自然の地形を利用して造られていますが、前方部の方に後円部を造るのが常道でしょうが、見晴らしの良い方を選んだとか勝手に想像してみます。(#^.^#) 前方部墳頂には掘り出し跡が残り、脇に三角点が設置されていました。前方部北側も削られたのか、崩落したものか墳丘裾が切り立っています。
山頂は平坦化され、歓喜天神社が建てられています。古墳の面影は残っていないのかと思いながら見学すると、宮の後方に長さ15m、幅2.5m、高さ1.1mほどの土手が存在していました。おそらく墳丘を削って残った一部と思われます。大きさからすると、径15~20m級の墳丘だったと思ったりします。(#^.^#) 土手の東側と中央に祠が祀られているのが見えます。
珍しい神社名ですが、境内には別の赤い社と鳥居も見られます。神社の北側には参道が有り、この道から楽に来られるように思います。(尾根筋を登ったため未通行ですが)
丘陵の南側集落より山頂を目指すも、竹林地帯の沢山の倒竹に悩まされながらの登りです。竹林を抜けると、立派な墳丘が目に入ります。墳長は42mらしく、高さは10mほどの円墳に見えます。墳丘の南西方向に出っ張りらしいものが見られるのでこの位置が造部かなぁと思ったりしますが、反対方向の北東側も少し出っ張っている感じがあります。墳頂は平坦で、東西方向に長さ2m、幅1m、深さ0.5mほどの掘り出し跡が見られます。
墳丘の西南西方向30mぐらいの位置に、径7mほどの気になる高まりが見られます。
藪の中に有りますが、円墳の墳丘がよく残っていて、径20m級、高さ2~2.5mほどに見えます。墳丘東から中心に向かって長さ7m以上、幅2m、深さ1m?ほどの掘り出し跡が残っています。ただ、墳丘周辺の雑木を切った材木が盗掘坑に入れられているのが残念です。墳頂には三角点が有り、脇に朽ちた祠が見られます。角礫が見られるとの事ですが、よくわからず。墳丘周りには、周庭帯と思われるような平坦な地形が、5~15mの幅で存在しています。
尾根山頂に円墳らしき高まりが有ります。山頂に有るため規模は不明ですが、径15m級、高さ1~1.5mぐらいに見えます。