susumuさんのプロフィール
近江神宮に駐車、参拝したその足で、住宅地の中を南へ、徒歩で10分かからず登り口に到着。 古墳のある丘陵の東側直下、住宅が途切れた斜面に説明パネルが見えて、すぐにわかりました。 かなりの勾配を、階段でジグザグと上りきると、前方部の南東隅に到着。 空が開け、目の前に階段状の石組の墳丘が現れました
散歩しながら古墳群が観れる所かと、県営春日山公園を訪問。 現地園内マップで「古墳エリア」へ向かいましたが、明るい公園内に在るのは円墳1基のみ、古墳に関する説明パネルもそこの1つだけです。 という事でパネルの古墳の位置図でめぼしを付けて、林の中に入ると しばらくは踏み跡を辿れますが、それもすぐ判らなくなり、 後は公園地の境界?数メートルおきのコンクリの柱を辿って、枯れ枝、落ち葉を踏んで上って行くと、ドームに到達。 上ってみると明らかに前方後円の形は12号墳でしょうか、、更に石材の散乱。は13号? 距離的にも別の古墳のようです。辺りに説明パネル等は一切ありません。 さて帰ろうとしましたが、、 石材をあちこち見てまわったりをしている間に方向に自信が持てない。 辺りは何処を見ても、樹木と薮で同じような景色に、往路の記憶もあやふやな物で・・ ちょっと迷いました(;'∀')(;'∀')。 国の史跡となっていても、古墳目当てに公園を訪れる人は少ないのでしょうか。。 あとから公園全体のマップを見ると敷地内ではあるようです。
前方後方、、前方後円、、この様式の違いは何でしょうかね。
小銚子塚との間に、余地が在ってストレスなく駐車。 車窓から既に大型墳丘の雰囲気が伝わってくる。 後円部から緩やかなカーブが落ち込んで前方部、 後円部頂から細い前方部が見える。周堀も見事。 大きく立派、優雅で美しい、良くぞ残った。 来た甲斐ありました。
整備の終わった後円部に上ると、江の島から相模湾の海原彼方に伊豆半島、眼下に田越川流域の逗子市街地を臨む。 少なくとも縄文時代、海がより内陸に入り込み、田越川を遡れば、現代より更に短い陸路で、東京湾側に通ずる最短ルートであったという。 おそらく古墳時代も、逗子の入江から、二つの墳丘が見えていたのは想像するのに難くない。 その先、再び横須賀から海路、第二、第一海堡を目指せば、対岸、富津の砂州は間近だ。
周辺の道路は狭いですが、古墳学習館に駐車場(有料)があって助かります。 学習館の玄関前の階段を上がると周堤上の歩道に出て、正面に古墳。 後円部の桐の大木2本の内、右側が2022年に倒れてしまったとの事。、 note.com/haniwa_emperor/n/nfa3f16e9577f で、若木が新たに梢を伸ばしていました。 公園内は遊歩道が整備され、復原墳丘、葺き石、埴輪などの展示も充実して見応えがあります。 また、墳丘上から西の眺めはなかなかなもので、見渡す大阪平野の向こうに「あべのハルカス」が見えました。 「古墳・学習・館」というと、ちょっと古臭い?堅い?とは違って、明るく軽やか、 スタッフの方々も朗らかに古墳とは?八尾とは?の活動をされている様子で、 今迄の展示館、博物館とは雰囲気が違って好感がもてます。 そんな事もあってか、普段あまり古墳グッズは手に取らない私がTシャツを購入。 前方後円の中に八尾の名産。有・無形文化・産業。歴史がデザインされ、生地は吸汗・速乾、サラサラ触感。 昨今、ますます暑くなる気候にマッチして、気に入りました。 木綿だったら買わなかった?かもしれません。 東の山々が大阪平野へと裾を広げてゆく傾斜地に築造された心合寺山古墳。 当時は、広大な耕作地から、金剛山地の緑の屏風をバックに白い墳丘が輝いて見えたことでしょう。
一帯は随所に説明パネルや屋外展示があって見応え充分、訪問し甲斐のある史跡公園でしたが、 駐車場・トイレは設置されていません。 周辺はクルマを寄せるような余地も無い上にコインパーキングも少なく、車での立ち寄り困難地。 前回は車窓から眺めるだけで退散。今回はJRの線路を挟んだ一角のコインパーキングに空きが見つかってラッキーでした。 北側の後円部(墓地)側の入り口のパネルに駐車場とトイレの案内があり。 どちらも片道で1㎞前後の距離ですが。駐車スペースはまだしも、トイレが無いのは少し不便?と思う反面、 自転車であれば問題ないでしょう。 乙訓地域は古墳時代以前~長岡京と、歴史ある地域。 seraさんのように、レンタサイクルが周辺の古墳、史跡訪問に一番かもしれませんね。
国分神社周辺の道は、一方通行?とも思える程に狭く、すれ違いは場所を選んで、対向確認、譲り合って行きましたが。 道が狭くなる手前の大和川左岸沿いの親水公園に停めるのも一考かと思います、神社まで徒歩10分とかからず、駐車場は無料のようです。 神社の境内から、樹林内を後円部へ上る路は、いたる所に板石が散らばっていますが、随所に立つ杭にロープが張られ、整備されています。
柏谷公園の駐車場に隣接するからくり時計広場と道を挟んだ所にあり、東側に後円部に上る階段がある。 傍らには朽ちたパネルがあり、現状は殆ど判読できない状態だった。 パネルは1995年に地区の長老会によって設置された物で、2008年頃は、まだ読める状態であった。 内容は以下。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 聖人塚(天皇峯) (前方後円塚) 一、木戸山(城戸山)芹沢(かしや)所有山である。ふくべ型の 頭部山頂に向原の山の神を祀りあり。 一、貴人の墓として大正時代の古老(江戸末期の青年)の話では通常木戸山と言い改め口調のとき須藤(さかや)文書により聖人塚又は天皇峯と語っていた又ふくべ型のためふくべ塚とも伝った。 一、大正末期までは山裾を途(みち)が廻って いた。 一、役場の明治十八年地誌調記によれば百穴 の西方に聖人塚(天皇峯) 一、芹沢氏個人の山だが奈良京都以外では見られない貴重な塚山だから区民一同大切に守り次世代に贈る心がけが肝要である。 平成七年三月 吉日 柏谷長老会 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 文中「木戸山(城戸山)」「向原」は地名、「芹沢」「須藤」は個人名のようで。 「ふくべ」は干瓢(かんぴょう)、瓢箪(ひょうたん)と同義、「(かしや)」「(さかや)」は菓子屋、酒屋の事か? 少なくとも江戸の末期には、瓢箪形の貴人が葬られた塚(前方後円墳)と云われていた事が判る。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1071613.html 遂に保存整備事業完了です。
クビレ部の登り道や、墳丘上の前方部と後円部を繋ぐ歩道には枕木の階段が設置されて、遺るという葺石も見当たらず、剣菱型の前方丘前面の裾は直線状になっているようにもみえるので。新たに土を表面に入れて植栽されている?とも思えますが、不明です。 ツツジ満開のド派手な墳丘にはちょっとビックリですが、人それぞれ好みの問題ですね。駐車場(有料)もあって芝生と植栽も良く整備された公園でした。 ただし、1号墳周辺に犬連れで入れないのは残念でした。
後円丘はゴッソリ、前方部も三方からザックリ切り崩され、 クビレに至っては幅2mもあるかと言う具合に墳丘はボロボロですが、 人家の間を抜けて、目前に現れた墳丘は、短小になっているものの、立派で存在感充分な大前方後円墳でした。 東に目をやれば、太平洋に遥か水平線を見渡す台地上です。 これだけ傷んでいながらも、えもいわれぬ風格を感じました。
外観は樹木に覆われていますが、墳丘上は空けていて、大型の前方後円墳の姿が良くわかります。 前方部入口の坂や墳丘周辺には拳大の石が見られます、多分転落した葺石でしょう。 右側のクビレ部に木の根もあらわな崩落があって崖状になっていました。
天井石も浦賀水道のパノラマも圧巻でした。 丹沢、富士山、箱根を背に対岸の横浜、横須賀はもとより。三浦半島の奥には伊豆の天城山塊まで。 海の東海道が一望できました。 古墳は土地の要所、一等地に在る事を実感します。
航空写真で見ると前方後円の形をした台地の上にあります。台地の高さは15m程、 その突端直下、六手(むて)公民館の背後は切り立った崖ですが、西に台地を回り込むと登り口があります。
コメント (78)
近江神宮に駐車、参拝したその足で、住宅地の中を南へ、徒歩で10分かからず登り口に到着。
古墳のある丘陵の東側直下、住宅が途切れた斜面に説明パネルが見えて、すぐにわかりました。
かなりの勾配を、階段でジグザグと上りきると、前方部の南東隅に到着。
空が開け、目の前に階段状の石組の墳丘が現れました
散歩しながら古墳群が観れる所かと、県営春日山公園を訪問。
現地園内マップで「古墳エリア」へ向かいましたが、明るい公園内に在るのは円墳1基のみ、古墳に関する説明パネルもそこの1つだけです。
という事でパネルの古墳の位置図でめぼしを付けて、林の中に入ると
しばらくは踏み跡を辿れますが、それもすぐ判らなくなり、
後は公園地の境界?数メートルおきのコンクリの柱を辿って、枯れ枝、落ち葉を踏んで上って行くと、ドームに到達。
上ってみると明らかに前方後円の形は12号墳でしょうか、、更に石材の散乱。は13号?
距離的にも別の古墳のようです。辺りに説明パネル等は一切ありません。
さて帰ろうとしましたが、、
石材をあちこち見てまわったりをしている間に方向に自信が持てない。
辺りは何処を見ても、樹木と薮で同じような景色に、往路の記憶もあやふやな物で・・
ちょっと迷いました(;'∀')(;'∀')。
国の史跡となっていても、古墳目当てに公園を訪れる人は少ないのでしょうか。。
あとから公園全体のマップを見ると敷地内ではあるようです。
前方後方、、前方後円、、この様式の違いは何でしょうかね。
小銚子塚との間に、余地が在ってストレスなく駐車。
車窓から既に大型墳丘の雰囲気が伝わってくる。
後円部から緩やかなカーブが落ち込んで前方部、
後円部頂から細い前方部が見える。周堀も見事。
大きく立派、優雅で美しい、良くぞ残った。
来た甲斐ありました。
整備の終わった後円部に上ると、江の島から相模湾の海原彼方に伊豆半島、眼下に田越川流域の逗子市街地を臨む。
少なくとも縄文時代、海がより内陸に入り込み、田越川を遡れば、現代より更に短い陸路で、東京湾側に通ずる最短ルートであったという。
おそらく古墳時代も、逗子の入江から、二つの墳丘が見えていたのは想像するのに難くない。
その先、再び横須賀から海路、第二、第一海堡を目指せば、対岸、富津の砂州は間近だ。
周辺の道路は狭いですが、古墳学習館に駐車場(有料)があって助かります。
学習館の玄関前の階段を上がると周堤上の歩道に出て、正面に古墳。
後円部の桐の大木2本の内、右側が2022年に倒れてしまったとの事。、
note.com/haniwa_emperor/n/nfa3f16e9577f
で、若木が新たに梢を伸ばしていました。
公園内は遊歩道が整備され、復原墳丘、葺き石、埴輪などの展示も充実して見応えがあります。
また、墳丘上から西の眺めはなかなかなもので、見渡す大阪平野の向こうに「あべのハルカス」が見えました。
「古墳・学習・館」というと、ちょっと古臭い?堅い?とは違って、明るく軽やか、
スタッフの方々も朗らかに古墳とは?八尾とは?の活動をされている様子で、
今迄の展示館、博物館とは雰囲気が違って好感がもてます。
そんな事もあってか、普段あまり古墳グッズは手に取らない私がTシャツを購入。
前方後円の中に八尾の名産。有・無形文化・産業。歴史がデザインされ、生地は吸汗・速乾、サラサラ触感。
昨今、ますます暑くなる気候にマッチして、気に入りました。
木綿だったら買わなかった?かもしれません。
東の山々が大阪平野へと裾を広げてゆく傾斜地に築造された心合寺山古墳。
当時は、広大な耕作地から、金剛山地の緑の屏風をバックに白い墳丘が輝いて見えたことでしょう。
一帯は随所に説明パネルや屋外展示があって見応え充分、訪問し甲斐のある史跡公園でしたが、
駐車場・トイレは設置されていません。
周辺はクルマを寄せるような余地も無い上にコインパーキングも少なく、車での立ち寄り困難地。
前回は車窓から眺めるだけで退散。今回はJRの線路を挟んだ一角のコインパーキングに空きが見つかってラッキーでした。
北側の後円部(墓地)側の入り口のパネルに駐車場とトイレの案内があり。
どちらも片道で1㎞前後の距離ですが。駐車スペースはまだしも、トイレが無いのは少し不便?と思う反面、
自転車であれば問題ないでしょう。
乙訓地域は古墳時代以前~長岡京と、歴史ある地域。
seraさんのように、レンタサイクルが周辺の古墳、史跡訪問に一番かもしれませんね。
国分神社周辺の道は、一方通行?とも思える程に狭く、すれ違いは場所を選んで、対向確認、譲り合って行きましたが。
道が狭くなる手前の大和川左岸沿いの親水公園に停めるのも一考かと思います、神社まで徒歩10分とかからず、駐車場は無料のようです。
神社の境内から、樹林内を後円部へ上る路は、いたる所に板石が散らばっていますが、随所に立つ杭にロープが張られ、整備されています。
柏谷公園の駐車場に隣接するからくり時計広場と道を挟んだ所にあり、東側に後円部に上る階段がある。
傍らには朽ちたパネルがあり、現状は殆ど判読できない状態だった。
パネルは1995年に地区の長老会によって設置された物で、2008年頃は、まだ読める状態であった。
内容は以下。
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聖人塚(天皇峯) (前方後円塚)
一、木戸山(城戸山)芹沢(かしや)所有山である。ふくべ型の 頭部山頂に向原の山の神を祀りあり。
一、貴人の墓として大正時代の古老(江戸末期の青年)の話では通常木戸山と言い改め口調のとき須藤(さかや)文書により聖人塚又は天皇峯と語っていた又ふくべ型のためふくべ塚とも伝った。
一、大正末期までは山裾を途(みち)が廻って いた。
一、役場の明治十八年地誌調記によれば百穴 の西方に聖人塚(天皇峯)
一、芹沢氏個人の山だが奈良京都以外では見られない貴重な塚山だから区民一同大切に守り次世代に贈る心がけが肝要である。
平成七年三月 吉日 柏谷長老会
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文中「木戸山(城戸山)」「向原」は地名、「芹沢」「須藤」は個人名のようで。
「ふくべ」は干瓢(かんぴょう)、瓢箪(ひょうたん)と同義、「(かしや)」「(さかや)」は菓子屋、酒屋の事か?
少なくとも江戸の末期には、瓢箪形の貴人が葬られた塚(前方後円墳)と云われていた事が判る。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1071613.html
遂に保存整備事業完了です。
クビレ部の登り道や、墳丘上の前方部と後円部を繋ぐ歩道には枕木の階段が設置されて、遺るという葺石も見当たらず、剣菱型の前方丘前面の裾は直線状になっているようにもみえるので。新たに土を表面に入れて植栽されている?とも思えますが、不明です。
ツツジ満開のド派手な墳丘にはちょっとビックリですが、人それぞれ好みの問題ですね。駐車場(有料)もあって芝生と植栽も良く整備された公園でした。
ただし、1号墳周辺に犬連れで入れないのは残念でした。
後円丘はゴッソリ、前方部も三方からザックリ切り崩され、
クビレに至っては幅2mもあるかと言う具合に墳丘はボロボロですが、
人家の間を抜けて、目前に現れた墳丘は、短小になっているものの、立派で存在感充分な大前方後円墳でした。
東に目をやれば、太平洋に遥か水平線を見渡す台地上です。
これだけ傷んでいながらも、えもいわれぬ風格を感じました。
外観は樹木に覆われていますが、墳丘上は空けていて、大型の前方後円墳の姿が良くわかります。
前方部入口の坂や墳丘周辺には拳大の石が見られます、多分転落した葺石でしょう。
右側のクビレ部に木の根もあらわな崩落があって崖状になっていました。
天井石も浦賀水道のパノラマも圧巻でした。
丹沢、富士山、箱根を背に対岸の横浜、横須賀はもとより。三浦半島の奥には伊豆の天城山塊まで。
海の東海道が一望できました。
古墳は土地の要所、一等地に在る事を実感します。
航空写真で見ると前方後円の形をした台地の上にあります。台地の高さは15m程、
その突端直下、六手(むて)公民館の背後は切り立った崖ですが、西に台地を回り込むと登り口があります。