susumuさんのプロフィール
周辺の道路は狭いですが、古墳学習館に駐車場(有料)があって助かります。 学習館の玄関前の階段を上がると周堤上の歩道に出て、正面に古墳。 後円部の桐の大木2本の内、右側が2022年に倒れてしまったとの事。、 note.com/haniwa_emperor/n/nfa3f16e9577f で、若木が新たに梢を伸ばしていました。 公園内は遊歩道が整備され、復原墳丘、葺き石、埴輪などの展示も充実して見応えがあります。 また、墳丘上から西の眺めはなかなかなもので、見渡す大阪平野の向こうに「あべのハルカス」が見えました。 「古墳・学習・館」というと、ちょっと古臭い?堅い?とは違って、明るく軽やか、 スタッフの方々も朗らかに古墳とは?八尾とは?の活動をされている様子で、 今迄の展示館、博物館とは雰囲気が違って好感がもてます。 そんな事もあってか、普段あまり古墳グッズは手に取らない私がTシャツを購入。 前方後円の中に八尾の名産。有・無形文化・産業。歴史がデザインされ、生地は吸汗・速乾、サラサラ触感。 昨今、ますます暑くなる気候にマッチして、気に入りました。 木綿だったら買わなかった?かもしれません。 東の山々が大阪平野へと裾を広げてゆく傾斜地に築造された心合寺山古墳。 当時は、広大な耕作地から、金剛山地の緑の屏風をバックに白い墳丘が輝いて見えたことでしょう。
一帯は随所に説明パネルや屋外展示があって見応え充分、訪問し甲斐のある史跡公園でしたが、 駐車場・トイレは設置されていません。 周辺はクルマを寄せるような余地も無い上にコインパーキングも少なく、車での立ち寄り困難地。 前回は車窓から眺めるだけで退散。今回はJRの線路を挟んだ一角のコインパーキングに空きが見つかってラッキーでした。 北側の後円部(墓地)側の入り口のパネルに駐車場とトイレの案内があり。 どちらも片道で1㎞前後の距離ですが。駐車スペースはまだしも、トイレが無いのは少し不便?と思う反面、 自転車であれば問題ないでしょう。 乙訓地域は古墳時代以前~長岡京と、歴史ある地域。 seraさんのように、レンタサイクルが周辺の古墳、史跡訪問に一番かもしれませんね。
国分神社周辺の道は、一方通行?とも思える程に狭く、すれ違いは場所を選んで、対向確認、譲り合って行きましたが。 道が狭くなる手前の大和川左岸沿いの親水公園に停めるのも一考かと思います、神社まで徒歩10分とかからず、駐車場は無料のようです。 神社の境内から、樹林内を後円部へ上る路は、いたる所に板石が散らばっていますが、随所に立つ杭にロープが張られ、整備されています。
柏谷公園の駐車場に隣接するからくり時計広場と道を挟んだ所にあり、東側に後円部に上る階段がある。 傍らには朽ちたパネルがあり、現状は殆ど判読できない状態だった。 パネルは1995年に地区の長老会によって設置された物で、2008年頃は、まだ読める状態であった。 内容は以下。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 聖人塚(天皇峯) (前方後円塚) 一、木戸山(城戸山)芹沢(かしや)所有山である。ふくべ型の 頭部山頂に向原の山の神を祀りあり。 一、貴人の墓として大正時代の古老(江戸末期の青年)の話では通常木戸山と言い改め口調のとき須藤(さかや)文書により聖人塚又は天皇峯と語っていた又ふくべ型のためふくべ塚とも伝った。 一、大正末期までは山裾を途(みち)が廻って いた。 一、役場の明治十八年地誌調記によれば百穴 の西方に聖人塚(天皇峯) 一、芹沢氏個人の山だが奈良京都以外では見られない貴重な塚山だから区民一同大切に守り次世代に贈る心がけが肝要である。 平成七年三月 吉日 柏谷長老会 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 文中「木戸山(城戸山)」「向原」は地名、「芹沢」「須藤」は個人名のようで。 「ふくべ」は干瓢(かんぴょう)、瓢箪(ひょうたん)と同義、「(かしや)」「(さかや)」は菓子屋、酒屋の事か? 少なくとも江戸の末期には、瓢箪形の貴人が葬られた塚(前方後円墳)と云われていた事が判る。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1071613.html 遂に保存整備事業完了です。
クビレ部の登り道や、墳丘上の前方部と後円部を繋ぐ歩道には枕木の階段が設置されて、遺るという葺石も見当たらず、剣菱型の前方丘前面の裾は直線状になっているようにもみえるので。新たに土を表面に入れて植栽されている?とも思えますが、不明です。 ツツジ満開のド派手な墳丘にはちょっとビックリですが、人それぞれ好みの問題ですね。駐車場(有料)もあって芝生と植栽も良く整備された公園でした。 ただし、1号墳周辺に犬連れで入れないのは残念でした。
後円丘はゴッソリ、前方部も三方からザックリ切り崩され、 クビレに至っては幅2mもあるかと言う具合に墳丘はボロボロですが、 人家の間を抜けて、目前に現れた墳丘は、短小になっているものの、立派で存在感充分な大前方後円墳でした。 東に目をやれば、太平洋に遥か水平線を見渡す台地上です。 これだけ傷んでいながらも、えもいわれぬ風格を感じました。
外観は樹木に覆われていますが、墳丘上は空けていて、大型の前方後円墳の姿が良くわかります。 前方部入口の坂や墳丘周辺には拳大の石が見られます、多分転落した葺石でしょう。 右側のクビレ部に木の根もあらわな崩落があって崖状になっていました。
天井石も浦賀水道のパノラマも圧巻でした。 丹沢、富士山、箱根を背に対岸の横浜、横須賀はもとより。三浦半島の奥には伊豆の天城山塊まで。 海の東海道が一望できました。 古墳は土地の要所、一等地に在る事を実感します。
航空写真で見ると前方後円の形をした台地の上にあります。台地の高さは15m程、 その突端直下、六手(むて)公民館の背後は切り立った崖ですが、西に台地を回り込むと登り口があります。
墳丘及び周辺は竹が密生している。不明点は多いながら、前方後円の形は良くわかります。 前方部正面の直ぐ近くに木造の祠が載る塚(径5mくらい)が在ります。 境界や柵等は特に無いですが、民家の裏庭、敷地内のようでした。
県道沿いに古墳への登り口が在り、説明パネルが立っていて駐車場も併設されています。 そこそこの高度を階段で上ってゆくと、道端に東屋が建ち、正面に丘陵頂上の後円部が見えてくる。 後円丘の上には木のペンチが置かれ、ちょっとした展望公園です。 前方丘上には浅い窪みがありました。
小貝川の土手の上から古墳を眺めた第一印象は、 随分と低地に在るんだな。だった 近代になって治水された小貝川は、古来から流路がなかなか定まらない河川だったらしく、昔の川筋はもっと離れていたのかもしれないと思う反面、低地であるのは築造以来の事実だろう。 葦間山という名から、葦原に頭を出した小山を連想する、葦といえば湿地の植物、そんな時代もあったのかもしれないとも思う。さらに、前方部は過去千数百年の間に、出水で削られてしまったのか?。等々と妄想してしまう。 いずれにせよ、低地は、地盤の安定という点ではリスキーな土地。地域最大の古墳の主は、地域の首長。最大有力者というのも間違いない事だろう。 人々は、何故この場所を選んだのだろうか。徳持という縁起の良い地名もちょっと気になる。 県道側の標柱の横の踏み跡で、見上げる後円部頂に上った。 はなかなかの勾配で登りながら大きさを実感した。
梵天山から車で最短ルートを目指しましたが、道幅狭く。 結局、車が通れそうなルートを探して付近をぐるぐる。2度ほど迂回しながら到着。 東側の赤鳥居の前に砂利敷きの広場が在って駐車は問題ありません。 鳥居から階段で後円部上へ、正月松の内の訪問でしたが境内、社に正月飾りは無かった。前方部は殆ど平に均され、墓地になっている。 台地上に立地とはいえ、梵天山台地の海抜25mに比べると10m以上低く、辺り一帯は水田。平らな前方部は過去に水害で流されてしまったというののあり得る・・?等と勝手な妄想をする。 追記:ちょうど梵天山台地との中間に在る微高地を往路に通ると、そこに鎮座する鹿島神社には多くの石祠が並び、本殿裏手に、石祠の立つ塚が在って、かなり古墳っぽさを感じた。
登り口の説明パネルは更新されて、実測図、古墳群配置図が新しい物になっていた。 墳丘は樹木に覆われているのと、南側からは手前に寺院が在って、全体像はわかりにくい。 一旦墳丘に上り、括れ部を乗越して北側からの方が全体のシルエットが分かりやすかった。 しかしながら、なにせ大きく、パノラマモードで画角に収めました。 それにしても・・、 墳頂の7つの祠。古墳名にしても、、祀られる神様達の事はどこにもふれられておらず、 自分も記憶していないというのは。。今更ながら、どうなのかなア・・
コメント (73)
周辺の道路は狭いですが、古墳学習館に駐車場(有料)があって助かります。
学習館の玄関前の階段を上がると周堤上の歩道に出て、正面に古墳。
後円部の桐の大木2本の内、右側が2022年に倒れてしまったとの事。、
note.com/haniwa_emperor/n/nfa3f16e9577f
で、若木が新たに梢を伸ばしていました。
公園内は遊歩道が整備され、復原墳丘、葺き石、埴輪などの展示も充実して見応えがあります。
また、墳丘上から西の眺めはなかなかなもので、見渡す大阪平野の向こうに「あべのハルカス」が見えました。
「古墳・学習・館」というと、ちょっと古臭い?堅い?とは違って、明るく軽やか、
スタッフの方々も朗らかに古墳とは?八尾とは?の活動をされている様子で、
今迄の展示館、博物館とは雰囲気が違って好感がもてます。
そんな事もあってか、普段あまり古墳グッズは手に取らない私がTシャツを購入。
前方後円の中に八尾の名産。有・無形文化・産業。歴史がデザインされ、生地は吸汗・速乾、サラサラ触感。
昨今、ますます暑くなる気候にマッチして、気に入りました。
木綿だったら買わなかった?かもしれません。
東の山々が大阪平野へと裾を広げてゆく傾斜地に築造された心合寺山古墳。
当時は、広大な耕作地から、金剛山地の緑の屏風をバックに白い墳丘が輝いて見えたことでしょう。
一帯は随所に説明パネルや屋外展示があって見応え充分、訪問し甲斐のある史跡公園でしたが、
駐車場・トイレは設置されていません。
周辺はクルマを寄せるような余地も無い上にコインパーキングも少なく、車での立ち寄り困難地。
前回は車窓から眺めるだけで退散。今回はJRの線路を挟んだ一角のコインパーキングに空きが見つかってラッキーでした。
北側の後円部(墓地)側の入り口のパネルに駐車場とトイレの案内があり。
どちらも片道で1㎞前後の距離ですが。駐車スペースはまだしも、トイレが無いのは少し不便?と思う反面、
自転車であれば問題ないでしょう。
乙訓地域は古墳時代以前~長岡京と、歴史ある地域。
seraさんのように、レンタサイクルが周辺の古墳、史跡訪問に一番かもしれませんね。
国分神社周辺の道は、一方通行?とも思える程に狭く、すれ違いは場所を選んで、対向確認、譲り合って行きましたが。
道が狭くなる手前の大和川左岸沿いの親水公園に停めるのも一考かと思います、神社まで徒歩10分とかからず、駐車場は無料のようです。
神社の境内から、樹林内を後円部へ上る路は、いたる所に板石が散らばっていますが、随所に立つ杭にロープが張られ、整備されています。
柏谷公園の駐車場に隣接するからくり時計広場と道を挟んだ所にあり、東側に後円部に上る階段がある。
傍らには朽ちたパネルがあり、現状は殆ど判読できない状態だった。
パネルは1995年に地区の長老会によって設置された物で、2008年頃は、まだ読める状態であった。
内容は以下。
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聖人塚(天皇峯) (前方後円塚)
一、木戸山(城戸山)芹沢(かしや)所有山である。ふくべ型の 頭部山頂に向原の山の神を祀りあり。
一、貴人の墓として大正時代の古老(江戸末期の青年)の話では通常木戸山と言い改め口調のとき須藤(さかや)文書により聖人塚又は天皇峯と語っていた又ふくべ型のためふくべ塚とも伝った。
一、大正末期までは山裾を途(みち)が廻って いた。
一、役場の明治十八年地誌調記によれば百穴 の西方に聖人塚(天皇峯)
一、芹沢氏個人の山だが奈良京都以外では見られない貴重な塚山だから区民一同大切に守り次世代に贈る心がけが肝要である。
平成七年三月 吉日 柏谷長老会
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文中「木戸山(城戸山)」「向原」は地名、「芹沢」「須藤」は個人名のようで。
「ふくべ」は干瓢(かんぴょう)、瓢箪(ひょうたん)と同義、「(かしや)」「(さかや)」は菓子屋、酒屋の事か?
少なくとも江戸の末期には、瓢箪形の貴人が葬られた塚(前方後円墳)と云われていた事が判る。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1071613.html
遂に保存整備事業完了です。
クビレ部の登り道や、墳丘上の前方部と後円部を繋ぐ歩道には枕木の階段が設置されて、遺るという葺石も見当たらず、剣菱型の前方丘前面の裾は直線状になっているようにもみえるので。新たに土を表面に入れて植栽されている?とも思えますが、不明です。
ツツジ満開のド派手な墳丘にはちょっとビックリですが、人それぞれ好みの問題ですね。駐車場(有料)もあって芝生と植栽も良く整備された公園でした。
ただし、1号墳周辺に犬連れで入れないのは残念でした。
後円丘はゴッソリ、前方部も三方からザックリ切り崩され、
クビレに至っては幅2mもあるかと言う具合に墳丘はボロボロですが、
人家の間を抜けて、目前に現れた墳丘は、短小になっているものの、立派で存在感充分な大前方後円墳でした。
東に目をやれば、太平洋に遥か水平線を見渡す台地上です。
これだけ傷んでいながらも、えもいわれぬ風格を感じました。
外観は樹木に覆われていますが、墳丘上は空けていて、大型の前方後円墳の姿が良くわかります。
前方部入口の坂や墳丘周辺には拳大の石が見られます、多分転落した葺石でしょう。
右側のクビレ部に木の根もあらわな崩落があって崖状になっていました。
天井石も浦賀水道のパノラマも圧巻でした。
丹沢、富士山、箱根を背に対岸の横浜、横須賀はもとより。三浦半島の奥には伊豆の天城山塊まで。
海の東海道が一望できました。
古墳は土地の要所、一等地に在る事を実感します。
航空写真で見ると前方後円の形をした台地の上にあります。台地の高さは15m程、
その突端直下、六手(むて)公民館の背後は切り立った崖ですが、西に台地を回り込むと登り口があります。
墳丘及び周辺は竹が密生している。不明点は多いながら、前方後円の形は良くわかります。
前方部正面の直ぐ近くに木造の祠が載る塚(径5mくらい)が在ります。
境界や柵等は特に無いですが、民家の裏庭、敷地内のようでした。
県道沿いに古墳への登り口が在り、説明パネルが立っていて駐車場も併設されています。
そこそこの高度を階段で上ってゆくと、道端に東屋が建ち、正面に丘陵頂上の後円部が見えてくる。
後円丘の上には木のペンチが置かれ、ちょっとした展望公園です。
前方丘上には浅い窪みがありました。
小貝川の土手の上から古墳を眺めた第一印象は、 随分と低地に在るんだな。だった
近代になって治水された小貝川は、古来から流路がなかなか定まらない河川だったらしく、昔の川筋はもっと離れていたのかもしれないと思う反面、低地であるのは築造以来の事実だろう。
葦間山という名から、葦原に頭を出した小山を連想する、葦といえば湿地の植物、そんな時代もあったのかもしれないとも思う。さらに、前方部は過去千数百年の間に、出水で削られてしまったのか?。等々と妄想してしまう。
いずれにせよ、低地は、地盤の安定という点ではリスキーな土地。地域最大の古墳の主は、地域の首長。最大有力者というのも間違いない事だろう。
人々は、何故この場所を選んだのだろうか。徳持という縁起の良い地名もちょっと気になる。
県道側の標柱の横の踏み跡で、見上げる後円部頂に上った。
はなかなかの勾配で登りながら大きさを実感した。
梵天山から車で最短ルートを目指しましたが、道幅狭く。
結局、車が通れそうなルートを探して付近をぐるぐる。2度ほど迂回しながら到着。 東側の赤鳥居の前に砂利敷きの広場が在って駐車は問題ありません。
鳥居から階段で後円部上へ、正月松の内の訪問でしたが境内、社に正月飾りは無かった。前方部は殆ど平に均され、墓地になっている。
台地上に立地とはいえ、梵天山台地の海抜25mに比べると10m以上低く、辺り一帯は水田。平らな前方部は過去に水害で流されてしまったというののあり得る・・?等と勝手な妄想をする。
追記:ちょうど梵天山台地との中間に在る微高地を往路に通ると、そこに鎮座する鹿島神社には多くの石祠が並び、本殿裏手に、石祠の立つ塚が在って、かなり古墳っぽさを感じた。
登り口の説明パネルは更新されて、実測図、古墳群配置図が新しい物になっていた。
墳丘は樹木に覆われているのと、南側からは手前に寺院が在って、全体像はわかりにくい。
一旦墳丘に上り、括れ部を乗越して北側からの方が全体のシルエットが分かりやすかった。
しかしながら、なにせ大きく、パノラマモードで画角に収めました。
それにしても・・、
墳頂の7つの祠。古墳名にしても、、祀られる神様達の事はどこにもふれられておらず、
自分も記憶していないというのは。。今更ながら、どうなのかなア・・